“ジェンダーフリー”という言葉

「来年度改定予定の男女共同参画基本計画に“ジェンダー”(社会的・文化的に形成された性別)の用語を残すかどうかをめぐり、猪口・男女共同参画担当相と、この問題を担当する山谷えり子・内閣府政務官の意見の違いが浮き彫りになっている」

十四日付朝日新聞に、このような文で始まる記事が掲載された。このあとは次の文が続いている。(但し、わかりやすく私が直している)

猪口氏が記者会見で「社会的性別(ジェンダー)」という表記で引き続き使用したいと明言したのに対し、山谷氏は記者団に「計画策定時にジェンダーという言葉の定義を明確にしなかったため、過激な性教育など教育現場で混乱が起きている」と述べ、慎重な考えを示したというものである。

我々は新聞記事を一応は信頼して読んでいる。ブン屋(新聞記者)の書く文は、うまいと信じているのである。この記事の内容は、日頃からジェンダーのことを考えている私には興味深いものでもあったので、身を乗り出して読んだのであった。ところが、である。以下に続く文を読むと、近頃は記者までもがまともな文が書けなくなったのかと落胆する。

「会見で猪口氏は『過激な性教育などは男女共同参画行政の目指すところとは全く異なる。一方で社会的性別で平等機会が奪われる事態を解決するためにもジェンダーの平等は追求していかなければならない』と語った」とある。

お気付きだろうか。記事の最初の部分と著しく論旨がずれている。見出しは「外す?“ジェンダー”残す?」である。これは“ジェンダー”という言葉を用いるか否かについての記事であったはずである。猪口氏は引き続き使用したい。山谷氏は“ジェンダー”という言葉の定義づけが曖昧なままでの使用は如何なものかと云っているのである。会見での猪口氏の発言が、そのまま載せられたのかは不明である。だが、そうだとしたら、過激な性教育などは目指すところではない、ジェンダーの平等は今後も追求していくべきだという意見は正論であるが、はじめにこの記事が問題提起した“ジェンダー”という言葉の使用云々についての補足にも本論にもなっていない。文のつながりが何もない。これは氏の答えが的はずれなのか、記者の文が下手なのか。たぶん後者であろうと思われる。

このあと、「山谷氏が政務官就任の前に事務局長を務めていた自民党の「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」は、“ジェンダーフリー”の名のもとに、過激な性教育などが行われているとし、改定後の計画には“ジェンダー”を使わないよう安倍官房長官に要望するとしている」と続く。「一方、自民党新人議員の勉強会では、「定義を明示し、正しい理解を通じたジェンダー平等理念の確立」を提言しており、党内での見解が分かれている」と結んでいる。

このマズい文は、かろうじて初めと終りを一致させ、なんとか格好をつけているが、読者をバカにしてはいけない。こんな文を読まされた我々は、中味のない肉まんを食べさせられたようなものである。長くても短くても、明快な論旨で結論へと導かなければならない。それは文を書く上でのイロハである。それはさておき、“ジェンダーフリー”という言葉に関しての私の意見はどうか。それを答える前に、まずこの話をしよう。

まだセンセイだった頃、高校生の生徒が夏休みの宿題に“ジェンダー”について書けというのがあると話した。それを聞いた私は、ほぉ、公立高校も進んだものだと思ったのである。その言葉から私は性同一性障害についてのことと理解したからだ。みずからレズビアンを名乗った女性教師のことを新聞で読んだことがあり、どんな性自認の人も認め、どの性に愛情が向くかも認め合おうという考えを、高校生レベルから育てようということだと思い、さすが大阪、日本で屈指の平等を重んじる都市だと感心したのである。ちょうど私が性の仕切りを取り外しかけている頃のことであった。

ところがよく聞くとそうではない。“ジェンダーフリー”、つまり社会において性差をなくそうということであり、それについて具体的な例を上げて自分の考えを述べよというものであった。“ジェンダーフリー”の目的は、社会において性差をなくそうというものの、おもに女性が社会で不利な立場に置かれていることからの解放、女性の仕事と昔からされているものに女性だけが従事することの不当性を是正しようというものである。また家庭での役割分担にも性差をなくすべきところはなくそうということも強調している。自分の生まれ持った性から解放されようということではないのだ。(しかしまったく無関係ではない)

しかるに、この“ジェンダーフリー”という言葉、初めて耳にした時、私のような解釈をする人もなくはないであろう。“ジェンダー”(社会的・文化的な性)、“フリー”(自由な、解放されている)を合成したこの言葉は、カタカナ語辞典にはすでに載せられているのだが、“自由な性”または“性の自由”と解釈した場合、山谷氏が指摘するような現象も起こりうる。過激な性教育をという混乱が教育現場で起きているなら、まず先生たちにこの語義の定着を図ることから始めなければなるまい。

その取り違えは、かつてフリーセックス(free sex)という言葉が社会に横行したことと無関係ではない。この語は同じくカタカナ語辞典では「社会的な制約にとらわれずに、自由に性行為を行うこと」とある。freeという言葉の捉え方によって、合成語のニュアンスは微妙に異なってくるわけである。“ジェンダーフリー”のフリーは「〜から解放される=自由になる(be free from 〜)であるが、“フリーセックス”のfreeはsexという名詞を飾る形容詞として「自由な」という解釈しかできないのだが、このあたりから混乱が生じているのだ。(“フリー”というと“自由な”、そして“無料の”という意味も定着した。蛇足であるが、フリーマーケットの“フリー”は、もちろんflea(ノミ)であり“蚤の市”のことである)

さて、結論として私の考えである。この言葉を使うには、まず“ジェンダー”の定義を浸透させ、“フリー”という語の解釈を「とらわれない、こだわらない」という意味で使うことも同時に徹底させるべきである。しかし、もっと云うならこの語の使用は本来、私は反対である。私たちは自国の言語を持っている。だから日本語で云えばよいのにというのが理由である。何かの動きやプロジェクトの名前には、なぜカタカナ語がふさわしいとされがちなのだろうか。むしろ誰にでもわかる従来の日本語で名付ければ混乱は起きないのではないか。“ジェンダーフリー”ではなく、「社会での性差解消」ではいけないのか。これなら誰にもわかり、誤解釈のしようがない。

このことに限らず、やみくもに何でもカタカナ語で表わすことこそ混乱・誤解の温床である。嘆かわしいことであるが、こんなことがあたりまえのようになって久しい。カタカナ語がカッコいいとされ、世の中に氾濫しているが、こんな現象は他国にもあるのだろうか。私はこのような風潮に抗い、極力カタカナ語の使用を控えている者のうちの一人である。そんな人間もいなければ、美しい漢字やひらがなが衰退し、いつの日か英語もどきのカタカナ語に、日本語が、いや日本国じゅうが征服されてしまうかもしれないと危惧するからである。

2005年12月17日 

         
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