「自己愛人間」プロローグ

近頃は大型古書店で本を買うことがふえた。書店では見られない懐しい全集や掘り出し物に出会うこともよくある。文庫本はさらに見ていて楽しい。これは話題になったぞという本もあれば、題名で「おっ」と思う本も見られる。

「自己愛人間」(小此木啓吾・講談社文庫・1984年)も題名に惹かれた。まとめて何冊も本を買うのですぐには読まなかったが、布団で退屈しのぎに読みはじめた。プロローグ「自己愛は誰にでもある」の部分だけを要約してご紹介しよう。

◎自己愛のカプセルの中で暮らす現代人

ナルシスは池に映る自己像に恋をした。誰でも人間には同じ気持ちがある。毎朝鏡を見て容姿を整え、気に入った銅像をつくり上げて自己愛を満たさなければ、安心して人と接することができない。自他の心の中に、気に入った像をつくって満足するためには、時にわれわれは食欲や性欲を二の次にし、人との愛情、信頼、親密さ、甘えなど、対人関係のニードさえも犠牲にすることがある。

この本の主役である自己愛人間とは、このような自己愛がひときわ肥大した人間をいう。自己愛を満たすことが最大の関心事であり、このことにしか心を動かさない人間である。このような人間にとっては食欲も、人とのかかわりも、すべてが自己愛を満たすための手段にすぎない。

人と愛し合う、世話をする、憎み争う場合も、心に思い描くカッコイイ自己像をそこでどんなにうまく演じるかが、心の満足を得るかどうかの分れ目になる。恋人の前でも、どんな人間になってそれを演じるかが大切なのだ。もし自己愛の満足が失われるなら、人とのかかわりも色あせ、愛情も性欲も食欲も無感動で無味乾燥なものになってしまう。

それだけに、自己愛人間は主観的で幻想的になりやすい。なぜなら自己愛人間にとっての心の決め手は、相手がどう感じて考えているかではなく、自己像が自分の思い通りであるかどうかにあるからだ。実際に欲望が満たされるかどうかでなく、シナリオ通りにどれだけ自分らしく演じられるかにあるのだ。

つまり自己愛人間は、相手の気持ちや周囲との客観的なかかわりから隔たった自己愛のカプセルの中で暮らしている。どんな状況にあっても、それに適った都合のよい自己像を思い描き、それをうまく演じることができれば、それでいっこうに傷つかない。病気になればカッコイイ病人らしく、不遇になれば不遇の人らしくというわけなのだ。自己愛人間は現実からかすかに隔たった自己中心的な夢想の中で、すべてを営んでいる人ということができる。

とりわけ現代社会は自己中心志向が異常に肥大した社会である。お互いが共有する自我理想によって、個々人の自己愛を社会化・歴史化するアイデンティティ(自己の存在証明)が、その機能を失った社会である。自己愛を満たすことだけが、信じられる唯一の価値になってしまった世の中でわれわれは暮している。」

ここまで読んで、ドキッとしたあなたは、もしかしたら自己愛人間かもしれない。私もそのようだ。苦笑する部分も多いが、ソコまでではないゾという部分もある。思うに誰もが多かれ少なかれ自己愛人間的要素を持っているのだ。ところがこの自己愛、マイナス面ばかりではない。プロローグの後半で、著者はこの自己愛の必要性も述べている。

◎自己愛は自我のガソリン

「われわれの自我が生きがいをもち、楽しくものごとを経験し、愛し合い、仕事を達成することができるのは、自我のエネルギー源になるガソリンや栄養が送り込まれている限りにおいてである。そして、そのエネルギー源が自己愛の満足なのだ。

人は誰でもそれぞれに応じた自己愛の満足を得ることなしには自我の働きは止まってしまう。これを劇的にあらわすのは現代病といわれる登校拒否や無気力状態である。(現在なら“うつ病”も含まれるだろう)活発だった子どもが急に何もしなくなり、学校へ行かなくなってしまう。

同じことが中高年にも起こっている。それまでの美化された父や母としての自己像は子どもの反抗や拒絶で崩壊し、親たちは突然に自分たちが無意味・無価値な存在になったような空しさを味わう。会社人間としての自己愛は、定年・退職とともに急速に萎縮し、自信のない貧弱な自分にしぼんでいく。老化や容姿の衰えからも幻滅が生じる。」

自己愛の満足こそが自我のエネルギー源であるという著者の考えにしたがえば、それは無くてはならぬものである。エネルギーが涸渇すれば人は無気力になり、うつ病にもなってしまう。では、そうならないためにはどうすればいいのだろうか。著者は云う。

「鏡に映った自己像が気に入り、その鏡像に恋をしている間は、誰でも人間はものすごいエネルギーを発揮する。しかし、その自分への恋の陶酔がはかないイリュージョン(錯覚)にすぎないことがわかる瞬間、自己愛の満足が補給するエネルギーは止まってしまう。そうなったら大変なので、われわれは容易に傷つかないような、さまざまな心のメカニズムを用いている。いろいろと自分に都合のよいイリュージョン(錯覚・幻想)をくり出し、それから醒めないですむような方法を、皆ひそかに工夫しているのだ。」

そうすると、自己愛は必要不可欠なものだということになる。活力源であるならば大いに自分を愛すればよい。ただし、そのイリュージョンが崩れ去ったとき、目覚めてしまって無気力になるというのは困る。それはどうすればよいのだろうか。自己愛人間を自認する著者は、この本を書いていくうちに自己愛人間の実体が見えすぎ、活動エネルギーを失って元気をなくしたという。

◎幻滅体験に出会って知る自己分析

「エネルギー源であったイリュージョンから醒めると憂うつになり、それまで都合よく正当化し美化していた営みが、すべて自己愛的で自己中心的なものであったと知る。人とのかかわりや社会的な位置づけも、すべてが空しいものに感じられて空しくなる。自己愛パーソナリティの研究家であるコフートは、その治療論で以下のことを述べている。
『いつどこで患者に幻滅を与え、イリュージョンから目覚めさせるかということが重要である。この幻滅の苦痛を一つひとつ経験することを通して、もっとリアルな自分とのかかわりが育っていくのだ』」

どうだろうか。皆さんの参考になっただろうか。誰もが自己愛を持っており、それは社会で鼻つまみになるほどは表へ出さず、適度な量は持っておくほうが良いようである。ほんのプロローグのみであったが、私は今からこの本をじっくり読むつもりである。(読めという声が聞こえる・・)

最後に著者が云っている。才能の発揮や何かの達成を優先させるか、よりよい人とのかかわりや人間成熟を大切にするか。これは難しい問題だというのだ。芸術家や学者や作家などは思う存分、自己愛的人間、自己中心的人間で良いわけだ。才能に恵まれた人というのは、世のしがらみも何のその、わが道を行くばかりで甚だ羨しいことである。

2005年7月4日 

         
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