人生を降りて生きる ― 「カイン」より

「蛻の殻(もぬけのから)」という言葉には、@脱皮した皮。ぬけがら。A人が逃れ去った跡の家または寝床などのたとえ。B魂の抜け去った身体。もぬけがら。と三通りの意味がある。私はB番の状態である。“もぬけがら”で毎日を生きている。

Hiroshiの一周忌を終えれば、けじめをつけて前向きに生きようと考えていたが、その日を境にそうやすやすと切り換えられるものではないと知った。しかしながら、できるだけ前向きにと自分に発破を掛けてはいる。だが、無理に頑張ると歪み(ひずみ)がきてまた潰れそうになるに違いない。それでは私はどのように日々を過せば良いのだろうか。これからどんな生き方をすれば良いのだろう。もちろん答は見つからない。けれども、その糸口になる言葉を見つけることができた。

それは「人生を降りて生きる」というものである。私はこの言葉と一冊の本の中で出会った。その本は「カイン」(中島義道著・新潮文庫)である。本屋へ行くと、ハードカバーや新書や文庫本をとり混ぜて数冊買ってくるのが常であるが、買おうとする本は、すでに新聞の広告で知っていたり、本の帯にある言葉によって短時間で決める。帯には「悩んでたら、この本を読んでみなよ」と書いてあった。サブタイトルは「自分の『弱さ』に悩むきみへ」である。若い人へ向けてのものであろうと思ったが、私も弱さに悩んでいるから、とりあえず買っておいた。

これも常であるが、しばらくの間、買った本を放置していた。数日前、読もうとしてページを開くと、なんと、書いているのは、あの「不幸論」の中島センセイではないか。Hiroshiの葬儀から二ヶ月ほどたった頃、本屋に出向いたのはいいが、どの本も買う気になれず、思わず目がいき手にとったのが「不幸論」であった。その頃は街へ行くと皆が幸せそうに見え、私だけが不幸であるように思えてならないという辛い時期であった。そんな私に、「人は皆、不幸なのである。それならば一人一人の固有の不幸を楽しめばよい」という中島センセイの言葉には救われたような気がしたものだ。「カイン」もその中島センセイ作であったのだ。

「カイン」はT君という真面目な学生に向けて語りかける形式で綴られている。彼は死にたいと思っている青年である。予想通りに、この本は若い人へ向けてのものであった。したがって本文は私にとって、面白くはあったが、とても参考になるというものではなかった。むしろ「まえがき」の方に興味を覚えたのである。まえがきというのは、その書き手が書きたかったことのエッセンスを示し、読者が読む前に伝えておきたいことが書かれてある。まえがきだけを読んでも興味深いものだ。この本は「はじめに ぼくはいかにして「強く」なったか」というまえがきの部分が、私にとっては得るべきものが多かったのである。

中島氏は「不幸な少年・青年時代を送り、死ぬ瀬戸際をさまよった」が、いくら書いても、現実の彼に会うとほとんどの人はそれを信じないという。むしろ「とても器用に生きている」とか「なんで、そんなに強いんですか」と聞かれることもあるそうだ。彼の本を読んだ人々は、「生きていくのが辛いとか、自分が厭でしかたないとか、何をする気力もないとか、自分の暗い性格が厭でしようがないとか、他人が怖いとか手紙で訴えてくる。主宰する哲学道場「無用塾」では、ふてぶてしくて、ぶっきらぼう、攻撃的で自己中心的、明るい社交家で、全身が鋼(はがね)でできているかと思われる中島氏に、はじめ人は驚くという。

彼は強くなり、そうなったのは一つには幸福をまったく求めなくなったことにあるという。他人にも自分にも期待せず、幸福を求めないとなると人は厭でも強くなるそうだ。欲しいものがほとんどなくなると、人は強くなるという考え方には頷ける。彼は「愛も富も社会的地位も心休まる家庭も立派な家も別段欲しくない。恋人もいらない。友人もいらない。支配できる他人もいらない。この意味で、物欲も金銭欲も性欲も支配欲も人間欲も無限に希薄なのである」今の私の心情も、限りなくこれに近い。

人は無性に欲しいものがあり、それは他人も望んでおり、それを手に入れることが可能な場合、確実に不幸になるのだと氏は強調する。一般人が望むものを「共に望む」というゲームから降りてしまえば、そのゲームに負けることはないのだ。ほんとうに欲しいものは手に入らないことを知っており、通常の人が欲しいものはほとんど欲しくないために、中島氏は傷つくことがなくなり強くなったのだということだ。

別の箇所でも氏は「人生を(半分)降りて生き」ているのだと云っている。同名の著書まである。私はこの言葉にひどく惹かれる。私もまさにその状態だと思うからだ。人生の半分、いや4分の3ほどを降りて生きているような気がしているのだ。私は妻を降り、嫁を降り、先生を降りた。母を降り、女を降り、親を降りようとしている。夢や希望や幸せを追い求めることからも降りた。降りようと思いながら、未だ降りられないでいるのが書くことであろうか。危なっかしいことに、生きていることからも降りたいと思うことすらあるのだ。しかし、あの寂聴さんも曾野綾子さんも私ぐらいの年令の時、死ぬことばかり考えていたと書いている。私は人生の黄昏どきなのだろうか。

「なぜ生きねばならないのか?」というT君の疑問に対し、氏は偉大なる哲学者カントの言葉を与えている。それは、とりもなおさずそれを追求することこそ生きていることの義務だからだというものだ。この義務を放棄することは絶対的義務違反になると答えている。答えは得られなくても、自分という存在が何なのかを求め続けることこそ価値があるのだとも云っている。また中島氏は、生きるのが辛くない人が生きていることは、とりたてて道徳的な価値はないが、生きていることそのことが辛い人にとって、その価値を求め続けることは苦しい課題である。だからこそ、それは崇高な課題となると説明する。若くもない私は、この答えに素直に「そうか」とはならないが、次の言葉には救われる。

「ほかのことは、さしあたり全部忘れよう。そして、きょうも生きている自分、きょうまで生きてきた自分に『よくやってきた』と言ってやろうじゃないか」

人生を降りて生きるとは、世の柵(しがらみ)からも自身の柵からも解き放たれて生きることである。きょう一日を無事に生きたら、そのことを誉め、もう一日がんばろうと言い聞かせつつ生きていようか。それだけでも立派なことだと中島センセイは云っているではないか。ねぇ君、そう思わないかい? 私と同じく生きにくいと感じているそこの君、そこのあなた、私たちは同類だね。

◎カインについて
カインは旧約聖書、『創世記』偽典『ヨベル書』に登場する人物。地上で誕生した最初の子供として初めの人間夫婦アダムとイヴに生まれた長男。アベルの兄。
カインは土を耕す者となる。『土の実りを主のもとに献げ物として持って来たが、主は弟アベルとその献げ物に目を留められ、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。』(創世記4章3節−5節)
その後、神に省みられなかったと感じたカインは弟アベルを野原で襲い、殺した。『土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。』(創世記4章10節−12節)
カインは、罪重く、追放されて荒野を歩くと出会った人々に殺されてしまうという。神はカインを死に至らしめることはせず、むしろ『主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられ』(創世記4章15節)守られた。その後、カインは神の前を去り、エデンの園の東、ノド(さすらい)の地に住んだ。そこで妻を娶り、息子エノクを授かった。カインは町を建て、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けた。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


(この本の題名に「カイン」と中島氏がつけたのは、繊細であるがゆえに社会で傷つき、生きにくいT君に、カインのようになって生きよとアドヴァイスしているからである。親や人の期待にそむき、怒る技術を身につけ、人に迷惑をかける訓練をし、自己中心を磨きあげ、強くなる修行をし、強い人間になって生きていくよう励ましている。)

2005年8月19日 

         
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