十割をめざして

十割といってもソバの話ではない。今日は書き言葉による伝達が何割まで可能なのであろうかという話である。

「平成道行考」を開設して二年半になるが、その間、多くの言葉を出してきた。しかし、それら数々の言葉は私が云いたいことの如何ほどを伝えているのであろうか。こんなことを考えるきっかけを与えてくれたのは一通のメールである。いつも私のサイトを訪れてくださるTさんが教えてくれたことに少なからず驚いたのであった。

言葉のみによるコミュニケーションでは、伝えようとすること全体の3割しか伝わらないのだそうである。あとの7割は視線や表情、間、触れあいによるのだそうだ。このほかにも声の抑揚、強弱、身ぶりなど、ひとつのことを伝えるには、こちらの五感を総動員させ、相手の五感に訴えなければならない。私の表情、声の抑揚、身ぶりもなしに、書いたものだけをディスプレイから伝える難しさは分かっているつもりであった。十割と欲張るつもりはないが、せめて八割は伝えたい、いや五割くらいは伝わっているのであろうと高を括(くく)っていたのだ。私は甘かったのであろうか。

彼女はこのことをスクールカウンセラーの講習会で習ったという。学校という現場でのカウンセラーを務めるには、感情のこもらない事務的な言葉を口から出していては勿論ダメである。目のまえの生徒と接するのには、言葉だけでなく、前述の付加的要素も必須である。それは私も生徒と接してきたので充分に理解できる。その場合は、はじめから書き言葉のみで伝達する場合とは少し情況が異なる。その意味において私はそれほど落胆しなくても良いのかもしれない。

それでは、最初から書き言葉のみで読み手に伝えようとする場合、最大何割まで伝達が可能なのであろうか。これは難しい問題である。同時に書き手の表現力のみならず、これは読み手の個々人の読解力にも左右されることである。したがって同じ内容のことを書き表わすにしても、書き手次第で理路整然と書けていたり支離滅裂であったりするであろうし、読み手次第でよく分かる文になったり、さっぱり分からない文にもなるということである。読み手の問題は皆さんにお任せするとして、私は書き手側の努力を怠ってはならない。どうすれば理解される割合を高められるのであろうか。

書き言葉を使って伝える際、何を伝えたいのかによって難しさは異なる。連絡事項を分かりやすく伝えるのと、どれだけ自分が嬉しかったか悲しかったかという感情を伝えるのとでは全く違う。連絡するべきことを分かりやすく書くことは、要点だけを書くなどを心がければよいが、自分の感情を適確に伝えることほど難しいものはない。おいしいものを食べた時にその味を表現するのも、マッサージをしてもらっている心地よさを表現するのも難しいことである。

食べもののおいしさやマッサージの心地よさは、同じものを食べた人や、同じマッサージを受けた人には理解できることである。では感情はどうであろうか。これもやはり同じような経験をした人には、同じ嬉しさや悲しさが分かるということになるはずだ。しかし実際には、AさんにおいしいものがBさんにはマズく、Cさんに気持ちいいものがDさんに痛い場合もある。同じ経験をしても然りである。同じ会社に入社できてもEさんは大満足で働き、Fさんは不本意でシブシブ働いているかもしれないのだ。外側に見えている“現象”からは内面までは見えないものなのだ。

そう考えると、画一化されるものは世の中に何ひとつなく、また、してはならないと思う。読解力のみならず経験や感情、その程度もさまざまな読者に向けて発信することの難しさをつくづく感じて腰が引けてしまう。しかし悲観的になったところで仕方がない。誰にでも分かる文体で、誰にでも共感できる部分を探りながら、シロウト書き手は表現しなければならない。とは云え読み手に媚びるつもりは全くない。何にも誰にも媚びないことこそ“シロウト書き手”の必須条件だと信じているのだ。

話は変わるが、先頃、友人からもこんなメールをもらった。「愛別離苦」や「道行考」であれほど私が悲しみを書いているのに、ナマの声で伝えられて初めて私のほんとうの悲しみが痛いほど分かった、申し訳ないことをしたと彼女は謝ってきたのだ。その少し前、私は彼女にあの日の後悔や思いの丈(たけ)を電話で吐露したのである。それを聞いた彼女は、私の苦しみや、当日のHiroshiはどれだけ不安であったかを今にして初めて察したという。やはり無機質のパソコンの文字よりも、あふれるように湧いて出た私の肉声の方が響くものが格段に大きかったということだ。

それでも書き続けようとする私は、シロウト書き手として挑戦をやめない。けれども伝える力が未熟なぶん、声や身ぶりなど全身で表現してみたいという欲求も芽生えてきた。ふだんどんな人が読んでくださっているのかも多少は(いや、大いに)気になるところである。そんなところから、読者の皆さんにお会いしたいと切実に思いはじめ、周りの人の協力を得て小さな会を催すことを考えている。それが実現したとて参加できる皆さんの数は限られているであろう。私はこれからも“十割の理解”を得るのを目標に、パソコンで発信する書き言葉での表現に精進するつもりである。

「水無月右近のひとり言」は「右近的ひとり言」として本日より始まった。新たな気持ちでスタートである。皆様、今後とも宜しくお願い致します。ちなみにソバは十割より八割くらいの方が私は好みなのである。

2005年5月9日 

         
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