「書く人」宣言

私は今、初めての中編に挑戦しているが、これがとても難しい。長編であれば書きたいだけ書いてもよいが、中編となるとその半分もしくは三分の一の長さで完結させなければならない。もちろん読み終えた時にはいくらかの感動を与えるものでありたい。肩に力が入るとそれだけで失敗しそうだ。難しいものである。

いま書いている「天罰」はHPで連載を始めたが、賞に応募することを思い立ち、中止させていただいた。読者の皆様には誠に申し訳ないことであった。大きなことを云ってみたのはいいが、悪戦苦闘の連続でスムーズに鉛筆が運ばない。大まかな筋書は決めていたが、枚数がふえている割に進展しない。細部まで書き込みすぎるのである。そこが私の未熟な点である。流れを止めるほど詳しく書き込んでしまうということを、じきにやってしまうのだ。小説には大まかな部分と緻密な部分の両方の要素が必要であることは書くうちに判ってきたが、それがうまくいかないのだ。書くことは、試行錯誤の連続である。

しかし苦しみながらも私は書くことに開眼しかけていると感じるのである。それではこれまでの数年は何だったのかとお叱りを受けそうであるが、今までは“シロウト”と自認していたのである。素人はあくまで素人であるから、下手でも自己満足でも許される。どうやら私はそこに甘えを見出していたのである。下手な文でも素人だからいいじゃないかと胡座をかいていたのである。けれども近頃その考えが少しずつ変化してきたように思うのである。

「透けてゆく人」は正真正銘、初めて書いた小説である。こんなの世間へ出してもなと控えめに考え、とにかく形にしたいと思って出版をした。すると早々に図書流通センターのカタログに載り、その後、社団法人日本図書館協会から選定図書に指定され、末長く読みつがれる良書として選ばれる光栄に与った。(このことは皆さんには耳にタコであろうが、何度でも云わせてほしい)私には儲けなど一銭もないが、たくさんの人が本を買ってくださった。そういう意味では片足をプロに突っ込んでしまったようなものなのだ。

けれども初作であるから未熟な部分も多々あることは自身がいちばん判っている。しかし勢いだけはあるなと思う。“これだけは書いておきたい”というものと、それ以上に“ずっと書きたかったのだ”という強い思いは、物語に気迫を与えているように感じられる。金さえ払えば誰でも本が出せる時代であるが(だから出せたのだが)、出すからには自己満足では終わりたくない、というふうに初めての出版経験から、いま私の意識は少し変化した。そうなのだ。書くならいいものを、出版するならいいものをと強く思うようになったのである。

 ご承知のように昨夏の大きな悲しみを今も引きずっている私であるが、書くことによってずいぶん救われている。これがなかったら、私はどうなっていたのだろうかと考えただけでも恐しくなる。書くことは、ビートルズが好きなように、コーヒーが、猫が好きなように無条件に好きなのである。人でもモノでも“好き”であることの理由が云えないように、私は書くことが理由なく好きなのだ。

それほど好きでありながら、書くこととは無縁の人生を送ってきたが、現在に至ってやっと本気で書いてみたいという思いに捕われたのである。題材はいくらでも転がっている。Hiroshiは多くのテーマを遺して逝った。私の周りにも描いてみたい人はゴロゴロ居る。巷にだってそんな人はたくさん居る。一見なんら変わったところのない“ごく普通の人”が実はもの凄い人生を送ってきていたり、心の中ではとんでもないことを考えていたりする。そんな人々を描いてみたいものである。

私は駆け出しであるから、自分を軸にしたことしかまだ書いていない。島田雅彦氏曰く、私の人生はこんなに大変だったのですよと書く小説は、せいぜい三編でいいそうである。その後、第三者をどこまで深く描けるかということが、小説家になれるかどうかの境目であるらしい。しかし氏は付け加える。車谷長吉氏のように自らの「怨」を描き続ける作家にはその存在価値があり、これからもその追求に磨きがかかればよいのだそうである。

私はまだ二作めの途中である。今のものが完成しても、あと一作は“こんな大変な人生でしたよ小説”でも許されるということであろうか。それとも車谷派となり、“怨”を純文学の域にまで高めることに挑んでみようか。それもやり甲斐のあることではある。それはともかく、私の前には書くべきことは無限に拡がっている。生きて感じているかぎり題材にこと欠くことはない。

書く意欲が昂まると、反比例して話し言葉が減ってくる。つまり私はあまり喋らなくなる。一作めの長編小説を書いている時は、何もせず書いていたから家の中は悲惨な状態であった。めったに人とも会わず、人と喋ることを避けていた。生活している「日常」と創作の世界である「非日常」の線引きがうまくできないからである。精神の集中を途切れさせたくないというのもある。私は不器用であるから、閉じ込めて溜めてはじめて書けるのである。したがって私は今後、一生懸命に書けば書くほど無口になることであろうと思われる。その点はご容赦願いたい。

話は変わるが同窓会に行った時、私は作家か否かということを笑いながら論じ合った。私はシロウトだ、作家ではないと云ったらSが否定した。プロでもシロウトでも作家は作家なんだ、と。ほぉ、サッカねぇ…、と私は気恥ずかしくなった。そうか。プロでもアマでも作家は作家なのか。うむ。ものがたりを創作しているという点では私も作家ということになる。それなら私は欲を出して単にWeb作家と呼ばれる存在ではいたくない。Web詩人とも呼ばれたくない。Webでのみ発表する私には、恐らく成長はないであろうから。書くならもっと広い世界で自身の力を出してみたいと思うのだ。

かくして私は本気で書くことにしたのである。幸いにも文学を志す者に年令は無く、いちばん書いている時を青春というのだそうだ。それならば、私はまだ思春期にある。青春はこれからやってくるのである。

私のするべきことは見えた。書くことである。作家と呼ばれるのは面映ゆいが、とにかく私は「書く人」になる。それを宣言することにした。

2005年12月5日 

         
前の思考 次の思考

右近的 INDEXへ