自費出版の気構え

「視点論点」というNHKの番組がある。私は朝方4時20分からの再放送でよく観ている。4時半からのニュースを観て寝るのが習慣で、テレビをつけるといつも誰かが何やらブツブツと喋っている。なんとなく観ているが、多分野にわたっての内容はとても面白い。色々な人が登場し、様々なことを喋っている。

もう一つの面白い点は10分間という放送時間の終わりが近づくと、話し手が眼をチラチラ動かして時間を気にすることである。いいコトを喋っておられるのに、この“眼チラチラ”が始まると、観ている私も落ち着かず、話し手同様に話に集中できなくなる。かくして時間内ににうまく話し終えられたら、めでたしめでたしと私も喜んで一体感を味わって安堵する。人と繋がるのはいいものである。

それはさておき、先日、詩人の荒川洋治氏が登場した。荒川氏はH氏賞ほかいくつかの賞を獲った詩人であり、評論も多く書き、幅広い活動をしている。みずからを詩人とは名乗らず現代詩作家と称していると何かで読んだことがある。きっとshyな人なのであろう。その彼が空前の自費出版ブームに苦言を呈する内容は興味深く、今秋2冊目の本を自費出版しようとしている私は身の引き締まる思いで拝聴した次第である。

最初に彼は大手自費出版社の倒産についてふれた。もちろん「新風舎」のことである。だが荒川氏の論点は素人を食い物にする自費出版社のあくどいやり方を批判するところには無く、出版を望む素人たちに向けてのものであった。公共の電波に乗せるゆえ奥歯にモノが挟まったような言い方ではあったが、むやみやたらと本を出そうとしている我ら素人に、本を出版するということの重さと神聖さを認識せよというお叱りの言葉のように思われた。

まず荒川氏は昔のモノ書きについての話をした。かれらはたいてい貧乏で、苦労して貯めたなけなしの金で自分の作品を本にした。その中には歴史に残る偉大な作家や詩人も多くいると彼は言う。自分の書いた詩や小説や評論が本になって世の中へ出て行く。それは書くことを志す者にとって憧れであり夢であった。書物に熱い想いをたぎらせた古きよき時代のことである。

それから荒川氏はこう切り出す。現在、自費出版という形で世の中に出ていく本は校正すらまともに行われず、出版社によっては客任せというところもあると嘆く。それは事実である。私の唯一の著書「透けてゆく人」は、出版社からいかほど朱筆が加えられて返ってくるかと楽しみと緊張とを取り混ぜて待っていたが、ほとんど訂正箇所がないまま戻ってきた。褒めちぎられてトントン拍子にコトは運ばれて拙著はめでたく出版された。客の意思を尊重ということかと考えたが、今にして思えばあれは単なる手抜きであった。もちろん私は持てる力をすべて出し切り、くどいほど自己校正をした。その粘り方は、もうやめてくれませんかとケムたがられたほどであった。

荒川氏の言葉を待たなくても書いたものを本にするということの意味を私は知っているつもりである。氏曰く、本を出版するということは正確な情報を世の中に知らしめることである。したがって間違ったことやいい加減なことが活字となることは避けられるべきであると強調する。それは当然であろう。私事で恐縮だが、拙著には性同一性障害や膠原病に関する記述がある。その部分を書くにあたっては関係者の協力を得たり専門書の引用で正確さを心がけた。もちろん何度も読み直し、情報提供者には最終点検も依頼した。

だが書物とは情報を提供するものばかりではない。荒川氏が関わる現代詩の分野もそうであるが、韻文にも散文にも創作や情緒的な要素が多く入ってくる。主張や思想は言うまでもなく大切であるが、感情やそれを言葉にする表現力も重要であろう。とくに文学的なものに関しては、それらが大きく左右して作品の価値が決まるという点があることは否定できない。そこを満たさない素人の稚拙な本が氾濫している現状は如何なものかと氏はいかにも言いたげであった。厚き唇から、素人はソコがまったく駄目だと出てしまいそうなのを抑え、荒川氏は苦悩の表情で素人を傷つけまいと話しておられた。

しかしながら、自由を重んじ、利潤の追求を重んじるこの国においてはコレでイイのだとまかり通るのも事実である。稚拙な記述であろうが客は著書を手にして大いに喜び、怪しげな自費出版社は高額をせしめて儲け、立派な自社ビルを建てて事業をさらに拡大するのも自由なのである。売れても売れなくても良い本をという、本をつくる人間としての心意気や良心はそっちのけで、需要があるから供給して応えることのどこが悪いとばかり、法を侵さない程度のあこぎさで利益を上げているというのが自費出版界の現状である。

さてさて人のことはこれくらいにして、私という素人の自費出版について考えよう。荒川氏の言葉は尤もであり、素人モノ書きとしては耳の痛いことであるが、私自身似たようなことを考えていた。自分が素人であることは自分がよく知っている。素人であればこそ文章の質を上げ、少しでも良いものを書く努力が必要だと思うのだ。いやしくも素人が自著を世に出そうというならば、もてる力を総動員し、これ以上は出来ないという仕上がりにしなければなるまい。昨今ではプロとは名のみのお粗末な本も堂々と出回っているが、そんなものに負けてたまるかという気構えで私は自費出版に臨みたい。本を愛する私には、私なりの心意気や覚悟があるのだ。

そもそも自費出版とは自分史や戦争体験、闘病記などのごく個人的なことを本にまとめ、人生の節目などに周りの人たちに贈ったり買ってもらったりするものとして存在した。今でもその類の自費出版は健在のようだ。素人がおだてあげられて誰もが作家になった気分で本を出すようになったのはここ数年前ぐらいからのことであろう。私もそのクチであるから大きなことは言えない。しかし私は子どもの時から書くことが大好きで、モノを書いて生計を立てられたらと夢みたこともある。書くことをこよなく愛している。たぶん何よりも。その私は団栗の背比べかもしれないが、本に縁の無かったけれど本を出したい素人センセイよりも、頭の先ほどは出ているかもしれないという自負がある。だが素人であることに変わりは無い。けれどもありがたいことに私には恵まれていることがひとつだけある。

誰かが書いていた。読者が一人でも存在すれば純文学を書けばよいと。本の売れない時代、さらに売れない純文学を書くには読む人が必要だというのだ。私には僅かばかりではあるが本を待ってくださる人々が居る。これ読んでいる皆さんである。純文学が私に書けるかどうかはさておき、私は出版を心待ちにしてくださる人々に恵まれている。それならば素人であろうが無かろうが、道行考のお客様を中心とした望んでくださる人たちに向けて出版すればいいではないか。もちろんこれ以上は出来ないというほど作品を練り直し、充分に校正してからお届けする。

身内や友人ではない顔の見えない具体的な読み手がいるという素人モノ書きも珍しい。そんな奴はどこにでも居るわけではなく私は幸せ者である。むろん採算は度外視、自費出版は持ち出しばかりである。けれども私の本をそばに置いておきたいという人々に向け、それが実現する至福の喜びを夢みて自費出版という道楽で遊ぶつもりである。さて「平成道行考」の何から本にまとめようか。あれこれと考えると楽しくて頬がゆるむ。おだてられて有頂天になり、作家気分で本を出すのは一度でよい。初めての本が評価されたのは嬉しかったが、私は素人である。自惚れたり野心を持ったりして浅はかであったことよのぉ。これからは身の程をわきまえ、素人なりの、けれどプロに負けない自著の出版をゆるりと楽しむことにしよう。

さて皆さん、そろりと参りましょう。よろしかったら同道を。
桜雨の降る日に考えた右近的自費出版にご期待あれ。

2008年4月8日 

         
前の思考 次の思考

右近的 INDEXへ