こきざみの幸福に気づく ― ちいさく刻んで考える ―
        吉本隆明「幸福論」一章より

Hiroshiの死i以後、ようやく私は彼のCDコレクションや本棚に手が伸びるようになった。彼がみずから並べたCDや本に温もりが残っているかのように手にとって慈しむ。共に過した長い生活のうち、最後の2年は会話がほとんどなく不幸な関係であった。その間に彼が買ったり自分で作ったCDや、読んだであろう本には初めて目にするものがある。学生時代から彼が大切にしていたものも含め、私は生涯かけて、すべてに目を通し、すべてを聴くつもりでいる。

その1冊に吉本隆明氏の「幸福論」があった。この本をHiroshiは2003年くらいに古本屋で700円で買っている。リュウメイは私たちが学生の頃、埴谷雄高(はにや・ゆたか)氏、高橋和巳氏らとともに新左翼の学生たちの教祖的存在であった人である。現在は作家よしもとばなな氏の父としても知られている。氏の肩書きは思想家、評論家とあることが多く、事実、80年代以降も激しい議論を著名人たちと闘わせてきた。その毒舌ぶりに人気が高いが、歯に衣を着せぬ発言に敵も多かった。(彼が本来は詩人であることは意外に知られていない)その氏も御年80を超え、好々爺になられたようだ。この本を読むとそれがよく判る。とにかく読みやすい。

「幸福論」というと難しいのではと、すぐに手にとらなかったこの本だが、開けてみると字が大きく、話し言葉のように平易な文章で書かれている。まずは1章のタイトルに惹かれた。「こきざみの幸福に気づく」とある。私も近頃、こきざみに暮らすのがいいと考えていたからである。この1章のサブタイトルには“超・老齢化社会への心構え”とある。私はまだその年齢に達していないが、暮しの中で「こきざみに」ということを実感していたのであった。なぜ私がそう考えるようになったかということは後で述べるとして、まずは「ちいさく刻んで考える」というところの5ページ分ほどを要約しよう。

氏には心がけていることがひとつある。つらいとか苦しいとか、調子がいいとか、いいことがあったとか、禍福というか幸・不幸というものを、長い周期で考えないようにしているというのがそれである。

例えば何かを食べたらうまくて、いい気持ちになった。それは、いまとにかく幸福なんだと考える。また、幸・不幸が続くと、若いときはそこから脱出したいと考えていたが、そういうふうに思わなくなった。つまり、幸・不幸とか禍いや嬉しいこと、気分のよしあしの期間や周期みたいなものを、その都度、瞬間瞬間に縮めてしまうことが唯一の救いだというのである。これは生とは、老いとは、死とは何かという哲学的、宗教的、形而上的に自分なりの回答を把握しているかどうかとは別次元のことであるとも氏は云う。
つらいこともそんなにずっと続くもんじゃない。それから、いいことも続くもんじゃない と考えるわけです。

年をとると、あとはもう死だけだと考えて、いいことなんか何もない、体も動かないし、と考えることは先を考えすぎて不都合である。現実の身体の死など明日死ぬというときに考えればいいのに、前から考えても無駄なことだ。なぜならそれは哲学や宗教の死になってしまい、現実の死とは別次元の問題となるからである。あるいは死がもし不幸の極みだとすれば、自分もやがてそうなることは生まれたときから決まっている。みんな不幸に向かって歩いており、それは不変のことなのだから、そんなことを長い周期で考えても仕方ない。

それに死も含めて不幸なことや幸福なことは、そんなに長続きするものではない。それを若い時は、まだ先が長いこともあって長い周期で考えている。しかし年齢が加わるほどに、頻繁な周期で、そのときに幸福感があったら幸福だと思えばいいし、たまたま仕事や日常生活で何か面白くなかったら、そのときは不幸だと思えばいい。
人間の幸・不幸とか、人生の目的は何かというのは、若いときに考えることです。

長い周期で「人生」と言うけれど、年とってから「人生の目的は何か」なんて、老い先短い人だからどうでもいい。知ったこっちゃない。それで、年をとればそう考えるのをやめ、ごくごく短い周期でものごとを考えるのがいい。しかし、もし抽象的に、論理的に死とは何か、老人とは何かということを考えるなら、とことん考えるべきである。それは日常にある幸・不幸とか、嬉しいとか嬉しくないということと無関係なことなのだ。だが、その考えは気分のいいときとそうでないときに頻繁に移り変わる。客観的な視点から抽象的に自分を追いつめておくと、いい結果をもたらす。

そんなことをとことんまで考えると、それ以上は考えることがなく、あとは実感として幸せや不幸を、病気したときには助からないかということなどを、その都度考えるといい。実感が伴う具体的なことについては、短く周期を考えるのがいい。たとえば孫が遊びに来て気分がよくなれば、それが幸福だと決める。若いときには何でもなかったことをそう考える。 ちょっとした、いい気分でも、これが幸せなんだと思うのがいい。

禅宗の考え方でも、そのときになりきるというのがある。幸・不幸も長く大きくとらず、短く小さなことでも移り変わりがあるのだと小刻みにとらえ、大きな幸せ、大きな不幸を考えない。幸・不幸はいつでも体験していると考え、大きさを切り刻み、時間を細かく刻んでその都度のいい気分を幸福とし、悪い気分を不幸とする。それが氏の場合、ある程度実感にかなっており、これ以上は助言すべきことがないのだとも。 (以上 要約)

老年にはまだ至っていない私が、氏の考えにいたく賛同したのはなぜか。それは私の精神年齢が、はや老年の域にあるからかもしれない。私の心が一気に老境に達したのはHiroshiの喪失が原因であろう。あれ以来、私は自分の人生の先がまったく見えなくなってしまったのである。けれどもHiroshiが居た頃から、もっと遡れば思春期の頃から、とくに不幸な境遇であったわけではないのだが、常に私は孤独とは、死とはということを考え続けていたようにも思う。明るい未来を見ていた時期の方が少なかった。これはよく云えば書きたい人間の業であり、悪く云えば他に考えることがたいして無かったからであろう。ともあれ私も人間関係や日常生活で悟ることがふえてきた。うんと先のことなど考えなくてもいいのだということも、この本で教えられた。

話は逸れるが、もうひとつ私には「小刻み」を実感していることがある。小刻みに家事をし、小刻みに学習し、小刻みに楽しいことをするのである。カッコよく云ってしまったが、有り体(ありてい)に云えば集中力が続かなくなっただけのことである。集中力ばかりか私の場合、体力もそうそう続かない。したがって、一ヶ所を片付けていてすぐ疲れて飽きてしまい、その場所を離れたくなる。また別の所を片付け始め、じきにそこも嫌になってしまうのだ。そんなであるから、あっちに手を付け、こっちに手を付け、全体として家じゅうを引っ掻き回しているだけの感があり、まるで空き巣にでも入られたあとのように、家の中は片付け始める前より雑然とした様相を呈している。

パソコンほかもろもろの独習や読書においては、知識欲はあれど持病による角膜の乾燥で長時間取り組むことができない。したがってもっと学びたくても、時間を限って頃合でやめなければならない。そうしないと翌日から目に痛みが出て使いものにならなくなってしまうのだ。知的欲求を満たすにも小刻みを余儀なくされているのである。また外出も長時間となると、それなりの準備や調整が必要である。“体調よし、目の調子よし、気分よし”と調えて臨まなければならない。したがって、もっぱらちょっとソコまでという近隣への小刻みな外出になっている。これからの空調の季節はさらなり、である。

さらに日常に目を向ければ、私はすべてに小刻みであることが分かる。一度にたくさん食べられない私は食べるのも小刻みであるし、中長編を書いていない私は、この「ひとり言」や短編小説などを小刻みに書いている。小刻みに庭仕事をし、小刻みにネコと遊び、小刻みにストレッチやランニングをし、小刻みに溜めてしまった葉書や手紙の返事を書き、小刻みに新聞を読み、テレビでニュースを見る。集中力がなくなったものだと嘆きもするが、人間の集中力というのは15分とさえ云われている。学習ならば2時間が限度であろうか。しゃかりきになってものごとに向かっても、脳が no more のサインを出せば終了するべきであろう。切り換えは能率の面からも大切である。小刻みでいいのだ、コレでいいのだとバカボンのパパに見習うのがよい。

さて人間の幸・不幸に話を戻そう。べつに老年に達していない中高年の私たちでも、若い人たちでさえ、ロングスパン(長期)でものごとを考えるより、もう少し短くして考えればどうであろうか。先々のことまで考えて不安を抱いて暗くなるよりは、とりあえず今日、明日のこと、せいぜい1週間、1ヶ月先のことくらいを睨んで生活し、人と接していけば楽である。また、毎日を精一杯頑張っていれば、おのずと何かが身に付き、道が開けてくるものである。私は近頃、とりあえず今日をなるべく元気にと自分に言い聞かせて暮らしている。そうすると、ずいぶん生きやすくなってきた。先のことなど考えない。考えても無駄である。それより今日の生活を楽しもう。何かひとつ向上しよう。そう思って生きている。

この考えで毎日を暮していれば、気がつくと、いつのまにか“おさらば”の時が近づいてきているであろう。あるいは幸せのまま知らぬまに昇天しているかもしれない。その時まで心地よく暮らすことができれば幸いである。「小刻みの術」あなどれず、なのである。小刻み思考、小刻み生活、ぜひお試しあれ。
あぁ、水無月ここちよし。水無月右近、明鏡止水の心地なり。

2007年6月8日 


吉本隆明(よしもと・たかあき) …… 1924年東京生まれ。東京工業大学卒。詩人、思想家、文芸評論家。日本の戦後思想に大きな影響を与えた思想家として、60年代より現代にいたるまで、さまざまな状況に対して思索、発言を続けている。作家・吉本ばななの父親でもある。代表的な著書に、『言語にとって美とは何か』 『共同幻想論』がある。

Hiroshiの本棚にあった「リュウメイ」の著書。

右から三冊は、昔の著書。内容は、かなり難解である。

左の「幸福論」(2001年 青春出版社刊)は、装丁もガラリと変わり、読みやすいものになっている。

         
         
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