向田邦子の恋−「向田邦子の恋文」より

8月22日は向田邦子氏の命日である。昭和56年のこの日、台湾を旅行中に航空機事故で急逝した。

向田邦子氏といえば放送作家として、つとに知られている。代表作には「七人の孫」「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」「あ・うん」などがある。私は昔からテレビドラマを観ないので、これらの作品が放映されているのを観たことがないが、そのどれもが人気番組であったことは記憶している。乳癌の発病をきっかけに随筆も書き始め、小説誌に読切り短編が掲載される。それらが候補に上がり、昭和55年には「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」で直木賞を受賞する。その他「父の詫び状」「思い出トランプ」など珠玉の短編を遺している。

「向田邦子の恋文」という本は2002年7月25日に出版された。著者は妹の和子氏である。本の第一部には手紙と日記が公開されている。和子氏は、向田邦子とN氏の手紙やN氏の日記を、邦子の急逝後に遺品の整理をしていた時に見つける。だが、内容についておおよその見当はつきながら、その封筒は平成13年の春まで開けられることはなかった。姉の秘められた恋を直視し、それを明かすには、20年という年月が和子氏には必要だったのである。

手紙や日記は昭和38年から39年にかけて書かれたものである。当時、向田邦子は売れっ子放送作家であり、ホテルにカン詰めの状態で仕事をしていた。学校を出てすぐに邦子は教育映画をつくる小さな会社に就職する。映画雑誌の編集などを経て放送作家となるが、勤めていた会社にはユニークな人が多く、大いに刺激を受け、啓発されたようだ。カメラマンのN氏とも、その頃に出会ったと想像される。N氏は13歳も年上で、妻子のある人であった。一度だけ向田家の玄関先で和子氏が見かけたN氏は、「ずんぐりむっくりした、やさしそうな人」であったという。

N氏はすでに妻子と別居中であったとも言われ、後に離婚をする。40代半ばに彼は脳卒中で倒れる。それ以後、足が不自由になり、カメラマンとして働けなくなる。その頃のN氏の日記には、天候やその日の行動、食べた物や買った物が記されている。働くことのできないN氏は、テレビを観たり、本を読んだり、脚の治療(今でいうリハビリか)に通ったりしているばかりの毎日であった。そんなN氏に対し、邦子は多忙な時間の合間に手紙を書き、訪れては食事の支度をする。そしてまたホテルへ戻り、仕事に専念したのだった。

邦子とN氏の関係は、邦子が24、5歳の頃から35歳までの約10年続く。途中、離れた時期もあったようだが、これらの書簡が交された頃は、邦子が懸命にN氏を支え、献身的に尽くしていることが解る。言葉には出さないが、日記からN氏も邦子をいかに頼っているかが伝わる。しかし驚いたことに、邦子の家族はN氏とのことを最後まで知らなかった。彼女は両親と弟、妹2人とともに暮らしていた。仕事が忙しいとホテルを仮住まいとしたが、邦子には家を出る気はなかった。自分が出てはならないと思っていたのだ。

和子氏によると、一家にとって長女邦子の存在はとても大きなものであった。父は気難しく、怒りっぽい男であった。生まれからして不遇であった父は、負けん気の強い気難しい人間であった。その父が、本気のような浮気をしていたため、母は戸惑い、ふさぎ込んだ時期があった。殺伐とした家庭の空気をなごませるべく、邦子は弟や妹たちに心を配り、家庭では中心的な存在であった。そんな家庭の状況で、自分の恋や結婚願望は、打ち明けられるべきものにはなり得なかったと思われる。

20代、30代の邦子をポートレートに撮り続けたN氏は、闘病2年後の昭和38年2月19日、自死を遂げる。前日までの日記には、何らいつもと変ることのない様子が綴られている。睡眠がコマギレであったとか、週刊誌を拾い読みしただけだとか、ラジオかテレビ番組の短い感想、買物に出かけたが雪になってあわてたとか、昼食や夕食に食べたものが簡単に書かれてあるばかりである。前々日には邦子が来て一緒に夕食を共にし、将来の方針を話し合うと書かれているが、脚の調子がよくないともある。邦子は午後10時半、一万円を置いて帰っている。2日後にN氏が命を絶つなどとは思いもよらないことであった。

邦子の献身でさえ、将来を悲観したN氏の自死を止めることはできなかった。悲しみはいかばかりかと思うが、愛する人、尽くしていた人の突然の死すら邦子は誰にも知られることなく、ひとりで堪え忍んだ。もの凄い精神力である。8ヶ月後に彼女は家を出て、ひとり暮らしを始め、新しいスタートラインに立つ。両親には家の増築をし、もしもの場合に備える。それを両親は邦子の好意として受け止める。ある日、父は些細な口喧嘩から「出てゆけ」と彼女に云い、「出てゆきます」と彼女は家を出たのだ。和子氏によると、それは父の仕掛けた芝居であったという。もう邦子を自由にしてやろうという父親の愛情であった。

51歳9ヶ月で亡くなるまで、邦子は茶封筒をそばに置いていた。それはN氏の死後、彼の母親から託されたものであったらしい。15年あまりそれを持ち続け、邦子の死後さらに20年を経て和子氏によってその中味が公開された。N氏亡きあとの15年を、邦子は人間の死というものから遠ざかるように前向きに生きた。私はすべての作品を読んだわけではないが、彼女の作品には独特の雰囲気がある。人情の機微というものが行間からにじみ出ているのだ。特に男の哀愁や女の情念の描写は素晴らしい。それらの思いはN氏との凝縮された10年の恋が満ち溢れている。N氏こそ邦子に書かせた人であったと和子氏は云う。

『N氏と秘密を共有し、人生のよきパートナーとして、お互い頼りにし、寄り添いあって、ある時期を生きた。彼が病気で倒れてからは、二人の絆と信頼はさらに深く、強くなったに違いない。
 N氏と生きた時間のなかで、姉はどれだけの生きる糧をもらったことだろう。大きな影響と惜しみない言葉、言葉にならないもののなかに姉は生きる糧の本質を見たのではないだろうか。そこに姉の“書く”ことを気づかせてくれ、姉をうまく育ててくれた人。N氏はそういう存在だったと考えている。』(抜粋)

放送作家としては十二分に認められていた向田邦子は、小説家としての花は全開を見ずして台湾に散った。存命ならば76歳、多くの作品が読めたはずである。残念無念のひと言である。それにしても夏という季節には、なぜ世界中で航空機事故が多いのか。痛ましいことである。黙祷。

2005年8月22日 

         
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