「桜の森の満開の下」(その2)

前回は詳細を述べすぎた。今回は端折ってあらすじを書くことにしよう。

都へ行くことを急ぐ女に、桜の花が咲くからそれを見てから出掛けなければならないと男は言う。なぜ行って見なければならないのかと詰問する女に対し、男は「花の下には涯(はて)がないからだよ」と説明する。女は意地の悪い笑いをして馬鹿にする。そして森が満開になったとき、ひそかに男は出かけていく。

「桜の森は満開でした。一歩ふみこむとき、彼は女の苦笑を思いだしました。それは今までに覚えのない鋭さで頭を斬りました。それだけでもう彼は混乱していました。花の下の冷たさは涯のない四方からドッと押し寄せてきました。彼の身体は忽ちその風に吹きさらされて透明になり、四方の風はゴウゴウと吹き通り、すでに風だけがはりつめているのでした。彼の声のみが叫びました。彼は走りました。何という虚空でしょう。彼は泣き、祈り、もがき、ただ逃げ去ろうとしていました。そして、花の下をぬけだしたことが分かったとき、夢の中から我にかえった同じ気持ちを見出しました。」

男と女と女中は都に住みはじめた。男は夜毎に女の命じる邸宅へ忍び入り、着物や宝石だけでなく、その家に住む人の首も請われて持ち帰る。多くの首を並べ、つるし、女は毎日首遊びをした。大納言の首、姫君の首、坊主の首、美しい娘の首に貴公子の首。女はくさった肉がペチャペチャくっつく首で、幼な子が人形遊びをするように首遊びをする。この部分は禍々(まがまが)しく忌わしい。

男は都を嫌った。珍しさにも慣れてしまうと、なじめない気持ばかりが残った。マヌケだノロマだと市や路上で怒鳴られることには腹が立たなくなったが、退屈に苦しんだ。彼は人間がうるさいのだった。女中は都ではお喋りができるから退屈しないと言うが、男は喋ると退屈するから喋らないのだと言う。そして山へ帰りたいと考えるようになる。

彼は毎晩人を殺すことにも退屈し、女の欲望には際限がなく、その欲望を満たすことにも退屈していた。女は常に直線を飛びつづけている鳥のようであり、彼はただの鳥であった。枝から枝に飛び廻り、たまに谷を渡るぐらいのもので、無限に直線に飛ぶことなど思いもよらないことだった。男は都の山の上から空を眺め、昼夜の明暗のくりかえしに涯がなく、その無限が納得できない。それを考えると頭が割れそうになった。

女はあいかわらず首遊びに耽り、首を持って来ることを要求する。キリがないから厭だと断り、男は都の山の上へ登り、気がつくと空が落ちてくることを考えていた。
「空の無限の明暗を走りつづけることは、女を殺すことによって、とめることができます。そして、空は落ちてきます。彼はホッとすることができます。然し、彼の心臓には孔があいているのでした。彼の胸から鳥の姿が飛び去り、掻き消えているのでした。」

女か俺か?空を無限に直線に飛ぶ鳥が俺自身なのか?女を殺すと、俺を殺してしまうのか?
男はなぜ空を落とさねばならないのかも分なくなってしまう。あらゆる想念は捉えがたく、苦痛のみが残った。男は女のいる家へ戻る勇気を失い、山中をさまよう。目がさめると男は桜の花の下にねていた。その桜は満開だったが、一本だけであったので、桜の森でのときのようにはならなかった。山へ帰ろう。なぜこの単純なことを忘れ、空を落とすことなど考え耽っていたのかと悪夢がさめた思いがする。

家へ帰ると女が嬉しげに男を迎える。これまでにないやさしさで、女は淋しかったと男に言う。けれども思いを決して男は山へ帰ると伝える。女は一緒に帰ると熱い涙を流して言い、男は胸にしみる。首がなくては生きられなくなっていた女は、それをもたらす男なしには生きられない。もはや彼は女の一部であった。男のノスタルジイがみたされたら、女は都へ連れもどすつもりでいたのだ。

山には女の欲しがる首がないと案ずる男に、首と男なら男をえらぶと女は言う。夢ではないかと男は喜び、希望に満ちあふれる。男は昨日までの女のことを忘れていた。そして二人は出発する。女は女中に、すぐ帰るからと言い残していた。
やがて昔の山々の姿が現れる。まもなく桜の森の下を通ることになっていた。女は背負ってくれとせがみ、男は軽々と背負って最初の日を思い出す。幸せはさらに豊かになっていた。この幸福な日に、あの森の花ざかりの下は何ほどのものだろうと男は思う。

桜の森が現れた。一面の満開であった。男は満開の花の下へ歩き込む。あたりはひっそりとしていた。男はふと女の手が冷たいことに気づき、女が鬼であることを悟る。冷たい風が、どっと花の下の四方の涯から吹きよせる。男の背中にしがみついているのは紫色の鬼であった。鬼の手は男の喉にくいこみ、彼は全身の力をこめて鬼の手をゆるめる。鬼は背中からどさりと落ち、こんどは男が鬼の首をしめつける。気がつけば男は女の首をしめつけており、女はすでに息絶えていた。
女の屍体の上に花びらが落ちてきた。男は女をゆさぶり、呼び、抱いた。そしてワッと泣きふした。

そこは桜の森のまんなかあたりで、四方の涯は花にかくれて見えず、花の涯から吹く冷たい風もない。ただひそひそと、花びらが散りつづけているばかりであった。男は初めて桜の森の満開の下に坐り、いつまでもそうしていることができた。彼は女の顔の花びらをとってやろうとする。手が女の顔にとどこうとしたとき、女の姿は掻き消えて花びらになっている。その花びらを掻き分けようとした男の手も身体も、延ばしたときには消えていた。あとには花びらと、冷たい虚空がはりつめているばかりであった。

筋書きはこのようである。約60年前に書かれたこの作品は、もちろんエンターテインメント小説ではない。安吾の代表作であり、正真正銘の純文学である。安吾は何を描こうとしたのであろうか。それは当人に尋ねるのが一番よいのだが、作品というものは、書き上がった瞬間から読み手のものになり、自由に解釈することが許される。そこで私なりの解釈をしてみよう。

男は桜の花の下へくると、怖しくなって気が変になった。風がないのにゴウゴウと鳴り、冷たさは涯のない四方から押し寄せてきた。この正体は何なのか。男が一人で山で暮していたときも、女と山に棲んでいたときも、桜の下では同じ思いになった。虚空の冷たさに泣き、祈り、もがいて逃げ去ろうとするのだった。女と都へ棲み、女の望むように首を持ち帰る生活にも嫌気がさす。都の山の上で男は空が落ちてくることを考える。女を殺すと無限の明暗を走りつづけることから逃れられると思うのだ。女とは、この男にとって何なのか。

山へ一緒に帰るとしおらしく言う女は、後ろを向いて舌を出し、結局は自分の欲望のために純粋な男を利用しようとしている人間だった。男はそうとは知らずに喜び、夢ではないかとさえ思う。言いようのない不安や苦しい思いは消え、希望に満ちあふれる。彼は一心同体となれる人間を得たと思ったのだ。初めて女と出会った日のように彼女を背負い、山への帰途につく。途中には桜の森の花ざかりの下を通らなければならないが、男はまったく怖れない。意のままにならない女が、首遊びよりも男と山へ帰る方がいいと自分を選んだことは、この上ない幸せを男に感じさせた。やっと一人ではないことを実感し、この女と心をひとつにしている。その喜びは男が感じつづけてきた捉えがたい不安や怖れから、つまり男は孤独から解放されたのである。

しかし満開の桜の下で女は正体を現す。女の姿をしていた鬼は男を殺そうとする。男は鬼の首をしめ、女を死なせる。女の屍体に泣きふす男には、もう花の涯からの冷たい風は吹かない。

「ただひっそりと、そしてひそひそと、花びらが散りつづけているばかりでした。彼は始めて桜の森の満開の下に坐っていました。いつまでもそこに坐っていることができます。彼はもう帰るところがないのですから。」

このとき男は、初めて安らかな心境になれたのではないか。頭上に花、その下に虚空。ひそひそと降る花びら。男には怖れるものが何も無くなっていた。最後に男が感じた「なまあたたかな何物か」が自身の胸の悲しみであったと気づいたとき、ほのあたたかいふくらみが何であるか分かりかける。一人であること。人は皆、一人である。男は生きていることの絶対的孤独を知り、認識する。

「桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分かりません。あるいは『孤独』というものであったかも知れません。」

男はもはや孤独を怖れる必要がなかった。
「彼自らが孤独自体でありました」と安吾は書く。この言葉は深く、重い。この男の存在そのものが孤独というものだと安吾は言うのだ。自身が孤独という実態そのものである以上、もはや怖れるものは何も無い。それを悟ったところで女も男も消え去ってこの物語は終わる。

「孤独」は安吾の生涯のテーマであった。高校生の頃から何度も読んだこの短編小説を、この春に私はやっと100パーセント理解した。孤独というものに対し、まだ私は充分に掴みきれていなかったのだ。男とおなじく、言い知れぬ不安や怖れ、捉えがたい想念から私も逃れつつある。それは私自身が孤独そのものであると認識しはじめているからであろうか。

満開の桜と虚空と。孤独の寂しさも通り過ぎれば怖れるに足りない。私はずいぶん桜に執着しなくなったと思う。咲いた散ったと大騒ぎすることもなくなった。ことさら感情移入することなく、毎年の植物の成長と捉えられるようになったのだ。人間は、みな独りである。この生の大前提が骨身に沁み、今年の春は桜を見る目が去年までのそれとは違っていた。また一歩、坊主に近づいた右近である。しかし、桜は美しいと思うことに変りは無い。桜前線は北上中である。

2007年4月12日 


右の本
高校生の時に毎月届けられた全集の一冊。筑摩書房。

左の本
「ちくま文芸文庫」は私のお気に入り。文庫サイズで表紙の絵もよく、中の活字も大きくて読みやすい。


インターネット上でも読めるが、(青空文庫)縦書きでないのが残念。文学作品は、やはり本で読むのが好きだ。
         
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