死への疾走 ― 久坂葉子

講談社文芸文庫シリーズに、「久坂葉子作品集」『幾度目かの最期』が加えられた。さっそく取り寄せ、この夭逝の天才文学少女の作品を初めて読んでみた。まずは久坂葉子の略歴について書いてみよう。

久坂葉子は本名を川崎澄子といい、1931年(昭和6年)に神戸市の再度筋(ふたたびすじ)で生まれる。父・川崎芳熊は川崎造船創生者・神戸新聞社主の川崎正蔵の孫にあたり、母・久子は貴族の出である。その次女として生まれた。兄、姉と弟の四人きょうだいである。頌栄幼稚園、諏訪山尋常小学校を経て十二歳で神戸山手高等女学校に入学する。(彼女は私の大先輩なのである)戦争が激しくなっていたため、防空壕を掘ったり畑仕事の多い学校生活であった。戦争は激しさを増し、空襲に見舞われるが、小説のような軟弱なものを読むことは禁じられるが文学書を読みあさる。

1947年(昭和22年)、十六歳の時、一回目の自殺未遂。授業は欠席しがちであった。この年の秋、相愛女専音楽部ピアノ科に入学するが一ヶ月で退学、同年、二回目の自殺未遂。翌年、十七歳で羅紗問屋に就職する。出席日数不足のため、山手高等女学校は四年時卒扱いで卒業する。太宰治の心中に衝撃を受けて詩を書く。この秋にアドルムを飲み、三度目の自殺を図るが未遂に終わる。小説や詩を執筆する。

1949年(昭和24年)、十八歳で羅紗問屋退社。六甲在住の島尾敏雄を訪ね、久坂葉子の名で書いた小説「港街風景」を渡す。同年、富士正晴主宰の同人雑誌に加わり作品を発表する。翌年、その同人雑誌に掲載された「落ちてゆく世界」は改作されて「ドミノのお告げ」と改題され、第23回芥川賞候補となる。神戸新聞にコントや随筆を発表、精力的な執筆活動をする。1951年、同人たちに作品をけなされて「VIKING」を退会。化粧品会社と新日本放送に嘱託として就職する。

1952年(昭和27年)二十一歳で先の二社を退社し、広島、九州一円を一人旅する。帰宅後に四回目の自殺未遂。その後、肋膜炎になる。しかし小説や戯曲を猛烈な勢いで書く。現代演劇研究所創立に参加し、「VIKING」に復帰、新たに同人誌「VILLON」創立にも加わる。しかし、この年の十二月三十一日、午前二時頃に遺稿となる「幾度目かの最期」を脱稿。同日、午後九時四十五分、阪急六甲駅で特急電車に飛び込み、自殺。五回目にして、ようやく命を絶つ。享年二十一歳である。

彼女の存在は古くから知っていた。彼女も私も通った学校の文芸読書部では「久坂葉子」研究をおこなっていたし、神戸では、よく目にし耳にする小説家であった。けれども敢えて近づかなかった理由は、死へと一直線に進んだこの作家に魅入られるのが怖かったからである。太宰に取り憑かれたように、また一人の危い作家に取り憑かれることは、私にとって非常に危険なことであると思われたからだ。現に、初めてこの一冊を読んだだけで、死の甘い誘惑と闘わなければならなかった。

この作品集には七編の小説・戯曲が収められているが、「幾度目かの最期」には衝撃を受けた。1952年12月28日に書きはじめ、31日未明には完成し、作品中で予告した通り、大晦日であるその日に自殺を遂げているのだ。その三日間の心の動きが克明に綴られている。よく遊びに行った同級生の母親に呼びかけ、その女性に語るという形式で書かれている。小説というよりは、それが書かれた前後の行動や心理、恋愛の悩み、創作などについての事柄が、綿々と綴られているのである。私には長い長い手紙、それも遺書のように思えてならない。

作品中には三人の男性が登場する。「緑の島」(嘱託で勤めていた新日本放送の文芸課長)、「鉄路のほとり」(くるみ座声優)、「青白き大佐」(VIKING同人の弟)がそれである。初め、この小説は恋の悩みが主題であるのかと思わせるが、自分の罪深さ、汚れた行為、仕事に対する不満、家庭の重圧など種々のことが書かれている。ところが、どれもが命を絶つほどのものであるとは思えない。それらの一つ一つに切迫感はない。あるとすれば、「死」に対するそれである。当時の彼女の精神状態は、死に向かわせるのに充分なものであり、その「死のエネルギー」は、もはや自らも、何者も止めることができないほどに成長していたのだ。

では、なぜ彼女は死に急いだのか。十代の頃から自殺をくり返したのか。もちろん現代で珍しくない若者の自傷や自殺とは一線を画するように私には思える。猪瀬直樹氏がこんなことを云っていた。作家とは、現実と非現実の間を綱渡りしているようなものだ。どっぷりと現実に浸る者に面白い作家は居ない。一歩でも足を踏み外せば死へと転落する。そのギリギリのところを歩くのが真の作家なのだという。本気で書いている作家たちは混沌と苦しみの中、死と隣合せで書いているのだ。

早熟であった彼女は早くから本に親しみ、短歌や俳句、南画にも興味をもち、音楽にも造詣が深かった。後に作曲という仕事にもそれが表れている。これらのことは彼女が名門に生まれたことと大いに関係がある。早熟な少女は早くから人に恋することを覚え、死について考えはじめる。それは戦時下にあって死というものを目のあたりにしていたこととはそれほど深く関係があると思えない。だが、生きることへのあきらめ、生に対する諦観は、空襲によって家は焼かれ、GHQ指令により父が公職追放処分を受けて土地や家財道具を手ばなし、筍(たけのこ)生活を強いられたことが大きく関係していると思われる。

彼女は十八歳から二十一歳の間に溢れ出る創作意欲に衝き動かされるように次々と作品を書き上げる。それは、まるで自分の生涯は二十一歳で終わるのだと知っていたかのように性急なものである。しかしそれは生き急いだのではなく、噴出する才能を出しきったあと、空洞となった自分を死へ向かわせるしかないという自然な行為なのかもしれない。少女時代から死の囁きに魅せられ、才能を一気に開花させた彼女には、痛ましいことだが、死しか残されていなかったのだろう。五度目にして念願の死を手に入れ、彼女は安息を得た。そして五十数年を経て、なおも暗闇で夜光虫のような青い燐光を放ってその存在を私たちに知らせているのである。

解説の久坂部羊氏(これは彼女に傾倒するあまりにつけた筆名であろうか)は、久坂葉子には「走死性」があったのではと云う。昆虫が光に集まる「走光性」という言葉をもじった彼の造語である。自殺未遂の理由は毎回ちがっていたが、生涯を通して死に惹かれつづけ、死にたいという衝動は共通していたのだ。また彼は、「久坂葉子はだれもが持つタナトス(特別な死への本能)を、比類ない極端さで表現し、実践した作家である」とも云う。

丸山健二は近著「生きるなんて」で述べている。(この辛口人生論は右近のお薦めである)「才能によって身を滅ぼした者の生涯は、たとえ短くても無意味ではなかったのです。そして、より人間らしく生きたと言えるのです」

私は凡人であるが、やはり早くからタナトスに悩まされてきた。それは彼女と同じ学校で学んだ頃からである。同窓会で本を買ってくださったO先生が奇しくも仰った。私は第二の久坂葉子であると。先生、お願いですからそんなことを云わないでください。私は彼女のような才能を持ち合わせていませんし、もしそうなれたなら、私の先が見えてしまうではありませんか。とりあえず、大晦日には線路に近づかないことにいたします。

クリスマスにこんなことを書いている私は、読み書きができる情況にある自分を幸せであると感謝すべきであろう。あと一週間で今年も暮れる。また一年生き延びた。そのことだけにでも満足しようと思う年の瀬である。


(注)筍生活……竹の子の皮をはぐように、衣類その他の所有品を売っ
        て生活費にあてる暮し。特に、第二次大戦直後に言わ
        れた。


    年表:久米勲氏、解説:久坂部羊氏の文を参考、引用

2005年12月25日 

         
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