真赤な椿 ― 死刑囚Hの手紙より(その1)

私は美しい手紙を読むのが好きである。
この手紙は、強盗殺人を犯した現実の死刑囚の書いたものである。Hという死刑囚は、発信前の手紙を日記に写し取っていた。これはHの処刑後、写し取られていた手紙を活字化したものである。まずはゆっくりと読んでいただきたい。


大西様
 目出度く新年をお迎えになった事と、お慶び致します。
 私もお陰様で、獄窓とは言え、餅に、数の子に、何か新しい年を迎えた気持を、深い悩みもなく、味わさしていたゞきました。体も至って元気でおります。まずまず御放念下さい。
 もう今となっては、貴君の脳裡にいまわしい、死に直面する苦悩の片々を御知らせするのも、毎度の色気の無い手紙となってしまいそうですから、今日は拘置所内の私が、何を眼に求め、どんな自然を発見しつゝ暮しているかを御知らせしたいと思います。
 私達が自由を束縛されている此の塀の中は、雀や鳩にとっては、自由の楽園です。誰も危害を加える者がありませんので、大阪の市中に、こんなに雀のいる一角があるのかと思う程、沢山の親雀、子雀がおります。朝は夜の明ける前から、夕方は日が暮れてもう辺りが真暗になる迄、可愛らしい声でさえずり続けています。私は食事のあとで、きまったように窓から、僅かではありますが、御飯粒を投げてやります。すると、さも嬉しそうに、私が罪人であることも知らずに時には、その御飯粒につまずきながら、十数羽の雀が、騒ぎ廻って食べ始めます。私は、この時にはこわばった唇も軟かくなって、昔吹いた懐しい口笛を周囲をはゞかりながら吹き続けます。雀は害鳥だなんて、それは私には納得出来ない親愛の冒涜です。
 私が毎日起居している部屋は一坪ちょっとの狭い部屋です。しかしこの部屋が案外広く感じることがあるのです。それは(此の頃ではもう居りませんが)蝿や蚊が時々、舞い込んで来るのですが、別に深い意味もなく(一室に閉じ込められていると、虫の一匹でも眼に映るとそのまゝ無関心でおれません)、それを捉えようと致します。小さくても翼をもっている先生は中々容易に捕りません。こんな時は、狭い独居も随分広く感じるものです。ものも見方という一つの実証ですがね。でも私の生命の見方が何故もっと素直に、楽な方向にこないのでしょ。(中略)
 この頃のように寒くて、日が短かいと、居房に射し込んでくる日の光りが、どれ程嬉しく私を労ってくれるか、社会的に自由な貴君には、おそらく御想像もつきますまい。それだけに曇った日はどれだけ、がっかりするか知れません。朝は今頃ですと窓の鉄柵に日光が、かゝり始めるのが九時半頃です。そして徐々に、私にだけ解る記号(壁の穴とか、汚れとか、かすかな爪あとなど)によって、十時、十時半、正午と言った調子で私に時刻を知らせつゝ、畳の上に射し込んで来ます。温室にいるような暖かさが私を包んでいてくれます。三時の記号に日脚が届くともうそろそろ食事が近づいた事を考え始めます。それから駈足のように弱められた光は消えてゆくのです。何にたとえるよりも、私自身がたとえられているような、消え去る光の哀愁です。
 この辺で、性の問題(おそらく貴君にしても、此の問題は興味ある問題だと思います。私は奇蹟の起らない限り、社会人として永久に高塀の外に出ることもないのですから、男同士のザックバランさで、聞きたい話を御伝えしたいと思います。しかし、信書の秘密は、犯罪者に許されていないのですから、女性の前で話せる程度に止めて置きましょう)に就いて、私の実体を書いてみるのも、面白い趣向になる手紙でしょうね。
 此の世の中に、将来というものを、のぞかれた人間にも、やっぱり本能という奴は、相変らず、将来をもった人間と同じように、いや、それ以上に、瞬間々々に於て強烈におそって参ります。性欲もその一つです。天秤にかける相棒の無い場合――例えば、男と女、煙草と饅頭とどちらがよいかと言ったような――暴逆者といってよい程の圧力を持って、のしかゝってくる勝手者であります。古人の言った「君子一人を慎む」とは至極名言なことは、凡俗の私にしてつくづく感じさゝれます。私のように独居房に長期拘禁されている者は、私に限らず誰もが同じような経験と感じ方をもっているだろうと思いますが、当所に来て一年半(此の一年半は、想い出せば短かい月日ですが、毎日々々においては、実に長い長い一日一日の蓄積でした)の間、年齢的に衰退していない私の精力で、性交の機会を持っていないということが、そのまゝに忘れられる機会では決してあるものではありません。私が雑居房に居ったり、また四六時中、何かの用事に追い廻されていたり、絶えずその事が忘れられているような刺激に富んだ出来事に逢着していたり、肉体的疲労のために、気力さえ失われていたりしておれば、そんなことは考えられもしないことでしょうが、私が迫ってくる首くゝりの恐怖や、被害者の亡霊に呻く、苦悶に、いらいらした日を続けていると言っても、朝から朝まで、一秒の隙間もなく、ブッ通しで、その渦中にあるものではありません。或時は故郷を懐かしんでいるときもあれば、或時刻には映画の筋書を追っかけている事もあります。又、思出の多い女の姿を幻に描いてみる時もありますし、金ボタン時代の道外れの腕白を微笑んでいるときもございます。そして、そんなときのあとに限って、空洞のような気持の状態に置かれて、ただボンヤリとした数刻の中に放り込む隙ができるのです。それを理性で制ぎょするには、あまりに私の環境が孤独過ぎるのです。そんなときには、一匹の動物の行動のように、幻に対象を、最も興奮出来る状態に置いて自涜してしまうのです。唾棄さるべき劣情にちがいありませんが、生命を抱いている人間の一こまとして、自分自身でも、笑いすてゝしまうには、何かわびしさを盛立てる、純粋が含まれていることを申し添えなければなりません。こうなると、不可解なものは、人間であり、生命であるということが、死刑囚にもいえるわけですね。
 真赤に咲いた椿の花を、女性の体臭と衣裳に結びつけて考えたり、中からのぞいている小さなめしべに、軽い羞恥を通わしてみたり、窓外の雀の交尾に、或夜の姿態を美しいベッドに乗せて想像してみたり、娯楽雑誌の小説の或部分をやたらに探して、半ば上の空の興奮で読んでみたり、性欲の対象物が、こんな多方面に拡がって、私の眼に、感覚に訴えられているということは、貴君の、正しい想像のつかない事だと思います。私の経験しないことですが、一年半も同じ屋根の下で暮しておりますと、色々なニュースが、私達同士の間で、又其の他の方法で聞かされますが、死刑確定者の中には、集会、茶会等で確定者同士が接している間に、男と男の激しい恋愛? にまでその友情が燃えのびて、異性に対するような、ラブレター類似の手紙が密かに交換されているそうです。そして愛する者から愛する者へ、差入れの物品から、日常の食事まで熱意をこめて、贈られて彼等同士の愛の表示がなされるとのことです。勿論時には三角関係も起り得る訳で、つい此の間も、執行を間近に控えた或一人を中心に、二人の死刑囚が、役人の眼に止まるまで発展して、争論となり、訓戒を受けたということを耳にいたしました。恋愛の本質が、戯れのそれでないことを、案外こうしたところに、雄弁に物語る根柢があるのかも知れません。私はこれを認め、愛は生命と結びついている、真実と本能の実体である事を疑わなくなりました。
 私の生活の報告を楽な気持で書き続けていると、とんでもない長い手紙になってしまいました。こんな調子で書いていたら、普通郵便物で届かなくなるでしょう。それ程変った環境には、変った話の種があるものです。まだまだお知らせしたいことが沢山あるのですが、余り手紙として長くなりますので、これの続きを次の便で御伝えすることにいたしましょう。私がこんな手紙を出せるようになったのも、不思議な、時間の麻酔にかけられて、心に余裕が出て来たのかも知れません。では御機嫌よく……。

   ×月×日
                   Hより


「手紙歳時記」(佐佐木幸綱 著「TBSブリタニカ」)「一月」より

2006年1月20日 

         
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