真赤な椿 ― 死刑囚Hの手紙より(その2)

この手紙を書いたHは、某大学商学部出身の元陸軍大尉であった。敗戦後、帰国すると家人は爆撃のために全員死亡、家も焼かれてなくなってしまっていたのだという。宛先の「大西」という人物は大学時代の友人である。家族のないHに日常品を差し入れたり、死と直面するHの心の奥ふかく入り込んで便りをくれる友人であった。ほとんどただ一人の昔からの知り合い、心情を打ち明けられる友人であった。死に直面した日々を送るHにとって、手紙を書いて送る彼の存在は、大きなものであったと思われる。

Hは日記も書いていたが、こう記している。刑務所では数ヶ月ごとに日記を教育課に提出することが義務づけられているようであった。
「誰がこの日記を何処で見る人になるのだろう。それともこのまま焼却されてしまうのだろうか。ふとそんなことを考える。何でもいゝ。俺は毎日こうして書いていることに、どんなに慰められているかわからないのだから……。
俺の日記は俺の後半の偲び草にはならないけれど、現在のよき伴侶にはなってくれる。」

この手紙を納めている「手紙歳時記」の著者である佐佐木幸綱氏は、Hが日記や手紙を書いたことについて以下の様に述べている。

「日記を書くこと自体が彼にとって救いなのであって、自分が何年後かにそれを読み返すだろうことも、誰か他人がそれを読むだろうことも期待の外にある。彼は書いて自分を言葉で整理することで自分の位置を確め、みずからを救おうとしているのである。手紙も同様であり、相手がどう読むか、あるいは読んでくれることすらも、たいした問題ではなかったのかもしれない。それほど深い孤独が書かせたのがこの手紙である。」

私にも大いに頷けることである。Hのように、ある日とつぜん執行される処刑による死を目の前に見ているわけではないが、書かずにはいられないHの心情は、痛いほどわかるのだ。私が同じ情況にあれば、自由な時間には朝から晩まで書き続けているであろう。但し、それは書かずにはいられない強力かつ永続的な衝動により書くのであって、そこには決して「救われたい」という思いは入り込む余地がないと思われる。その点では佐佐木氏と私は意見を異にする。書くことで思考や感情の整理はできるが、自己と深く対峙することによって、さらに苦しみが増すことも少なからずあるからだ。書くことで人は決して救われないのだ。

しかしながら抑えがたい書きたい願望に衝き動かされ、あふれ出る言葉を書き綴ったHは、少なくとも書くことに没頭している間は幸せであったと思われる。刑務所の塀の中という隔絶された空間で聞くさえずりに雀への親愛の情を感じ、起居する一坪ちょっとの部屋にときどき舞い込む蝿や蚊の動きに、狭い独房を広いと感じる感情は研ぎ澄まされたものである。また、居房に射し込む日の光は日の短い冬にはHを労うことや、射し込む日光によって時刻を知り、駆け足のように弱められた光が消えゆく様を、みずからが消え去ることと重ねる哀愁に、Hのもつ繊細な感情、鋭敏な感性が伝わるのである。

この手紙でHはまた、「性」の問題について、かなり深いところまでの心情を吐露している。その部分には長い文がよどみなく勢いよく流れ、それはあたかも抑えているHの性欲が一気に噴出し、激流となっているかの様である。衰退していない性欲は、肉体疲労や処刑の恐怖、罪に対する苦悶、あるいは懐しい故郷やかつて観た映画などを思い出してみたあとにできる心の空洞にすっぽりと入り込むのだという。理性でその気持ちを制御するにはあまりに孤独な環境に自分は居ると嘆くHが哀しい。

「そんなときには、一匹の動物の行動のように、幻に対象を、最も興奮出来る状態に置いて自涜してしまうのです。唾棄さるべき劣情にちがいありませんが、生命を抱いている人間の一こまとして、自分自身でも、笑いすてゝしまうには、何かわびしさを盛立てる、純粋が含まれていることを申し添えなければなりません。」

「唾棄さるべき劣情」には「わびしさを盛立てる、純粋」が含まれているというHの言葉は重く、充分すぎるほどに理解ができるのである。この言葉は、酔ってしまうほどにすばらしい表現である。

真赤に咲いた椿の花にHは女性の体臭と衣裳を重ね、中からのぞく小さなめしべに女性器を連想するまでに想像の世界を拡げ、雀の交尾にベッドの上の女性の姿態を思い浮べる。性欲の対象物は多方面にわたってHの眼や感覚に訴える。それらは塀の外の人間には考えもつかないものであろうとHは云う。さらに塀の中では友情が燃えあがり、男と男の激しい恋愛に発展することがあるとも述べている。集会や茶会で死刑確定者同士が接し、ラブレターのような手紙が交換されるという。愛する者へは差入れの物品や食事まで、熱意をこめて贈られて意志表示がなされることがあるようだ。

「恋愛の本質が、戯れのそれでないことを、案外こうしたところに、雄弁に物語る根柢があるのかも知れません。私はこれを認め、愛は生命と結びついている、真実と本能の実体である事を疑わなくなりました。」

死を見据えた者たちが限られた空間で接する情況を、私たちは現実味をもって感じることは難しい。しかしながら、あといかほど生きているかわからず、常に死を意識している目に映る人びとが互いに恋愛感情をもつことを、私は自然なことであると受け留められる。死を前にしても愛したい。それが性を同じくする相手であっても、ごく自然なことなのである。人が人を愛したいという気持ちは、死の直前まで萎えるものではなく、Hの云うとおり、恋愛の本質は真剣なものであり、戯れのそれでは決してないのだ。死を睨んだ愛こそ本物なのである。

Hはこの手紙を夢中で書いたと思われる。とんでもなく長い手紙になったと終わり近くで詫びている。単調だが「変わった環境」には「変わった話の種」があると云う。そして最後に、このような手紙を出せるようになったのも、「不思議な、時間の麻酔」にかけられて、心に余裕が出てきたのかもしれないと結ぶ。時間の麻酔! 何と素敵な言葉であろうか。医師が数える「一、二…」で深い眠りに堕ちてゆくあの心地よさ。まるで媚薬を嗅がされたかの如きあの快感。死刑囚として独居に暮らすHは思い出に、空想に毎日を生きているのである。

この手紙文を読んだとき、まるで文学作品を読んでいるかのごとき錯覚を抱いた。其処ここにきらめく言葉をちりばめ、それは決して計算されたものでなく、Hの体の芯から湧き上がったものである。これほど美しい文を書く人間は、ざらに居るものではない。極限にある者は、俗人の想像を絶する煩悶を経て透徹した心境に達するのであろう。彼の目は涼やかに小さな生き物や自然に向けられ、まだ生きている自身の内面にも向けられ、静謐な筆致でそれらが描かれる。この文章を書いたHの心は、まさに「明鏡止水」ではなかったか。

書くことがHにあってよかった。書くことによる救いは無い。自身と向き合う文章を綴ることは、むしろ生の苦しみを大きくするものである。だが、書いている間だけは負の感情から解放される。書き終わると現実に引き戻されるも、書くことは束の間の平穏と没頭を与えてくれる。それゆえ書く人間は書くのである。だから私も筆を折る事ができないのだ。麻酔をかけられ、眠りに堕ちる寸前の、あの蜜をなめたような甘美なときを味わいたいために、書いてしまうのである。書く者にとって、書くことはすべての快感に勝るものなのである。

花びらを散らす山茶花(さざんか)とは違い、椿は潔く地面に花ごと落ちる。花びらもめしべもそのままで地に落ちるのだ。私がHにも椿をみると云えば、それは不可思議であろうか。死刑囚ではなかったら、作家として良い作品を遺した人であったろうにと惜しまれてならない。














「手紙歳時記」(佐佐木幸綱 著「TBSブリタニカ」)「一月」より

2006年3月1日 

         
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