父の日の悔い

 六月十八日は父の命日だ。そのあとじきに父の日がやってくる。梅雨に入ればそれらが近いことを知らされるが、七回忌を過ぎた今も消えることのない後悔がある。
 
 若い頃の父は家業に精をだし、筋骨たくましい男だった。家業のほかにも組合や学校、そのうえ町内などの諸役を引き受け忙しく、幼い私は父と顔を合わせることがほとんどなかった。子どもの頃の記憶にある父は、私には目もくれない近づきがたい存在だった。
 その父は、私が成長するにつれ可愛がるようになる。姉や兄たちが所帯をもち、私だけがまだ学生で家にいたからか、気味が悪いほど私をそばに置きたがった。淋しがりやで酒好きの父は、呑むときには誰かをかならず必要とした。それは話を聴いてもらうためであり、その役を私がしていた数年間がある。
 嫁いでからは実家へ遊びに行った時しか顔を合わさなくなった。行くと父は照れを隠し、「来たんか」とだけ云った。相好をくずし、私よりも孫娘にかまけ、何も分からない赤ん坊を汗だくになりあやしていた。
 
 晩年には種々の病魔に襲われ入退院をくり返し、大手術も受けた。入院すると家へ帰りたがり、帰ると雑然とした自室のベッドを何より好んだ。やがて下半身に麻痺が出て、寝たきりになり軽い痴呆が始まった。震災により愛着ある家が全壊扱いとなり撤去されたが、そのことを父は嘆いたのかどうか。神戸を愛して住みつづけた父に、あの壊滅状態が理解できないことを願ったものだ。
 震災二年後の死は予期せぬものだった。ちょうど四ヶ月後には誕生日を控えていたが、その日を待たずして逝った。八十になれば盛大に祝ってくれと云っていたと兄から聞き、残念でならなかった。母屋は消えてしまったが、葬儀は父が生涯愛した場所でおこなわれた。
 
 その年の父の日は、六月十五日と早めだった。月始めが日曜日だったため、例年よりも早く来たのだ。私は前年に膠原病を発病し、神戸までの往復が気軽にできる状態ではなくなっていた。迷ったあげく、連休には行ったことだし兄弟たちも行っているからと、疲れを出して仕事に差し支えるのを恐れて行くのを断念した。
 けれどもあの時、行けばよかった。むろん三日後に他界することを予知することは不可能であったが、いつものようにすればよかった。好物のカステラでも買って行き、「お父さん、ありがとう」と言葉をかければよかった。そうすれば最後の挨拶ができただろうに。
 父の日と命日と。毎年おとずれる私の悔いを、「そんなもん気にせんでええぞ」と優しく父は笑っているようで切ない。
 
2004,6.18

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